正しいことを言っているのに、なぜ伝わらないのか?
今回このことについて考えてみます。

 

以前、「起動順序」について書きました。
人は、何から動き始めるのか?

同じ出来事に直面しても、
まず考える人がいれば、動く人もいる。
目的から考える人もいれば、
目の前の状況から動き始める人もいる。

 

そして次に、
「配置順序」について考えてみました。
同じ人であっても、
置かれている場所が変われば働きが変わる。

能力があるか、ないか。
正しいか、間違っているか。

そうした個人の性質だけでは説明できないことが、
世の中にはたくさんあります。

 

では、
起動する順序も、配置も理解した。
それでも物事が上手くいかないのは、なぜか?

最近、
そんなことを考える機会がある中で、
まったく別のところから、一つのヒントを見つけました。

それが、外国語でした。

 

 

同じことを言っているのに、同じ言葉がない

 

最近、
外国人から見た不思議な日本語や、
日本人から見た不思議な外国語を紹介する動画にハマっていて、

例えば、日本語の「よろしくお願いします」

私たちは何気なく使っているが、
これを英語に訳そうとすると、意外と難しい。

初対面なら「Nice to meet you.」
仕事を一緒にするなら「I look forward to working with you.」
何かをお願いした後なら「Thank you in advance.」

もちろん、
これらが完全に同じ意味というわけではない。

日本語では同じ「よろしくお願いします」なのに、
英語では場面によって言葉が変わる。

反対に、
英語の「I miss you.」も面白い。

日本語では「会いたい」「寂しい」「恋しい」など、
相手との関係や状況によって表現が変わる。

どちらの言語が優れているという話ではない。

 

どちらも、
人間が経験する世界を表現しようとしている。

ただ、その世界をどこで区切り、
どのように言葉にしているかが違う。

ここで、ふと思った。
言葉が違うから、伝わらないのだろうか?

いや、そうとも限らない。

同じ日本語を話していても、
伝わらないことは山ほどある。

むしろ、
同じ言葉を使っているからこそ、
伝わっていると思い込んでしまうことさえある。

 

 

「ちゃんとしてください」は、何を求めているのか

 

例えば、
誰かから「ちゃんとしてください」と言われたとする。

言われた側は、何が問題だったのかを調べる。

原因を確認する。
改善策を考える。
そして説明する。

これで「ちゃんとした」と思う。

 

ところが、相手は納得しない。
「そういうことを言っているんじゃない」
と言われる。

では、相手は何を求めていたのだろうか?

もしかすると、
原因の説明ではなく、
今後も安心して関われるという確信が欲しかったのかもしれない。

あるいは、
自分が大切にしてきたものを理解してほしかったのかもしれない。

もちろん、
本当に何を求めていたのかは、
本人に確認しなければ分からない。

しかし、
ここで重要なのは、
同じ「ちゃんとしてください」という言葉から、
まったく違う行動が生まれうることだ。

 

言われた側は、問題を解決しようとする。
言った側は、関係を確認しようとしているかもしれない。

どちらも「ちゃんとする」という言葉を使っている。
なのに、見ているものが違う。

 

外国語なら、翻訳が必要だと最初から分かる。

しかし、
同じ日本語を話していると、
翻訳が必要だということにさえ気づかない。

同じ言葉を使っていることと、同じ意味で使っていることは違う。

これは、思っていた以上に大きな問題なのかもしれない。

 

 

正しさには、それぞれの時間がある

 

もう一つ、気づいたことがある。

人は、目の前の出来事だけを見て判断しているわけではない。

例えば、
ある人が何かを変更したとする。
変更した本人には、そうするだけの理由がある。
以前はうまくいかなかった。
何度も失敗した。
だから今度は違う方法を選んだ。
本人にとっては、過去の経験を踏まえた合理的な判断である。

ところが、
変更を受けた側には、別の時間が流れている。
今まで問題なく続いていた。
これからも続くと思っていた。
それが突然変わった。
だから、不安になる。

ここで、
どちらか一方が嘘をついているわけではない。

同じ出来事を見ていても、
そこへ至るまでの時間が違うのである。

変更した人は、過去の失敗を見ている。
変更された人は、これまでの継続を見ている。

そして、
どちらも自分の経験を根拠に、正しいことを言っている。

では、どちらが正しいのか?

もちろん、
事実関係や守るべきルールを確認すれば、
判断できることもある。

しかし、
事実やルールだけでは、
なぜ相手がそのように受け取ったのかまでは説明できない。

同じ現在に立っていても、
人は同じ過去から来ているわけではない。

だから、
同じ出来事が、同じ意味になるとは限らない。

 

 

起動と配置だけでは、まだ足りなかった

 

ここで以前の二つの話に戻る。

起動順序とは、何から働き始めるか?だった

配置順序とは、どこに置かれることで、その働きが成立するか?だった

では、
関係順序とは何だろう?

私は今のところ、こう考えている。

ある出来事に対して、
何との関係が先に立ち上がるのか?

例えば、
同じ注意を受けても、
ある人は、言葉の内容を聞く。
ある人は、誰から言われたかを気にする。
ある人は、以前にも同じことを言われた経験を思い出す。
ある人は、周囲がどう見ているかを気にする。

同じ言葉である。

しかし、
その言葉が最初に結びつくものが違う。
だから、その後の反応も変わる。

これを単なる性格の違いとして片づけてしまうと、
見落とすものがある。

なぜ、その人はその関係を先に見たのだろうか?

そこには、
それまでの経験や、
現在の立場、
相手との距離、
置かれた環境が関わっている。

そして、
それらは固定されているわけではない。

昨日まで気にならなかった言葉が、
今日になって気になることもある。

以前は嫌だった相手の言葉が、
ある経験を経て、違って聞こえることもある。

つまり、
関係が変われば、同じ言葉の働きも変わる。

ここで気づいた。

起動順序も、配置順序も、
関係から切り離して考えることはできなかったということを。

何から動くのか?

どこで働くのか?

何と関わるのか?

 

別々のことを考えていたはずなのに、
どうやら同じものを違う方向から見ていたらしい。

 

 

理解できることと、同意することは違う

 

関係が見えてくると、不思議なことが起こる。

相手がなぜ怒っているのか、少し分かる。
別の人がなぜ困っているのかも、分かる。
自分がなぜその判断をしたのかも、分かる。

すると、
誰か一人を悪者にして終わらせることが難しくなる。

しかし、
だからといって全員が正しいということでもない。

事情があっても、改めるべき行動はある。

不安があっても、すべての要求が認められるわけではない。

そして、
相手の事情が理解できたからといって、
その人の望みをすべて叶えなければならないわけでもない。

理解することと、同意することは違う。

これを区別できないと、
人間関係はますます難しくなる。

相手を理解しようとすれば、
自分が折れなければならない。

自分の考えを守ろうとすれば、
相手を否定しなければならない。

そんな二択になってしまうからだ。

 

しかし、
本当にその二択しかないのだろうか?

相手の事情を理解しながら、
自分の判断を持つこともできる。

自分の考えを持ちながら、
相手の判断を尊重することもできる。

同じになる必要はない。

違うまま、関係することはできる。

 

 

足して割ったら、一つになる?

 

外国語の動画を見ていて、もう一つ感じたことがある。

日本語には日本語の特徴がある。
英語には英語の特徴がある。
別の言語には、また別の特徴がある。

共通しているところもあれば、
互いに凹凸のように見えるところもある。

それらを見比べていると、
なんだか足して割ったら一つになりそうな気がしてくる。

もちろん、
言語を平均すれば一つの完全な言語ができる、という意味ではない。

むしろ逆である。

違うものを、
無理に同じにしなくてもいい。

違うもの同士を並べてみると、
そこに共通する構造が見えてくる。

そして、
違いがあるからこそ、
当たり前が当たり前ではなかったことに気づける。

これは、
人間関係も同じなのかもしれない。

相手の正しさを自分の正しさに変える必要はない。
自分の正しさを相手に押しつける必要もない。

まずは何が違うのかを見る。

そして、
その違いがどこから生まれたのかを見る。

すると、
対立しているように見えた二人が、
実は同じものを守ろうとしていたと気づくこともある。

もちろん、
最後まで一致しないこともある。

それでも、
違いを知る前と後では、
関係の見え方が変わっている。

 

 

関係は、目の前の二人だけでできていない

 

人間関係という言葉を聞くと、
つい二人の間の話だと思ってしまう。

しかし、
実際にはもっと多くのものが関わっている。

過去の経験。
今の環境。
その場にいない人。
言葉にされなかった期待。
これから起こるかもしれない未来。

それらが、
目の前の二人の間に入り込んでいる。

 

だから、
今起きた出来事だけを取り出しても、
なぜそうなったのかは分からない。

そして、
そのすべてを知ることも、おそらくできない。

それでも、
関係を観察することはできる。

自分が正しいと思ったときほど、
別の方向から眺めてみる。

相手が間違っていると思ったときほど、
その人が何を見ているのか考えてみる。

すると、
今まで見えていなかったものが少しずつ現れる。

 

最近、
起動順序、配置順序、関係順序と考えてきて、ふと気づいた。

違うことを考えていたつもりだった。
しかし、
結局は同じことを、
何度も別の方向から眺めていたのかもしれない。

人は、
一人で動いているわけではない。

何から動き始めるかも
どこで働くかも
何と関わるかも

その人だけで決まっているわけではない。

だからこそ、
他人を見ることは、
自分が立っている場所を知ることにもなる。

外国語を知ることで、
日本語が不思議に見えてくるように。

 

そして、
ここで新たな疑問が生まれた。

相手の事情も、
自分の事情も見えてきた。

それでも、
現実には何かを選ばなければならない。

では、
いくつもの正しさが見えているとき、
人は何を基準に判断するのだろうか?

もう次のネタは出来上がっている。
次回は、
その「判断順序」について考えてみたい。