以前、
「起動順序」「配置順序」「関係順序」について書いた。

人は同じ出来事に遭遇しても、同じようには動かない。

何をきっかけに動き始めるのか?
どのような環境に置かれているのか?
そして、何との関係が先に立ち上がるのか?

それらによって、人の振る舞いは変わっていく。

では、
その先にある「判断」はどうだろう?

私たちは、
自分の意思で物事を判断していると思っている。

しかし、
本当にそうなのだろうか?

 

今回は、
判断が生まれる順序について考えてみたい。

 

 

 同じ材料でも、違う料理になる

 

例えば、
目の前に牛肉、玉ねぎ、にんじん、じゃがいも、
そして……カレールーがあったとする。

さて、何を作るだろうか?

 

おそらく、
多くの人はカレーを思い浮かべる。

しかし、
よく考えてみると、
カレールーを使わなければ肉じゃがを作ることもできる。
別の調味料を用意すれば、
ほかの料理だって作れるだろう。

それなのに、
カレールーが一つ置かれているだけで、
私たちの判断はカレーへと向かいやすくなる。

なぜだろう?

それは、
過去に食べたカレーの記憶や、
料理の知識、
慣れ親しんだ手順などが働くからだと思う。

つまり、
私たちは材料を見てから自由に判断しているつもりでも、
判断する以前に、
すでに方向づけられている可能性がある。

ここで重要なのは、
カレーを選ぶことが間違いだという話ではない。

また、
カレールーがあるから必ずカレーを作るという話でもない。

判断は、
何もないところから突然生まれるわけではない
ということだ。

 

 

判断する前に、何を見ているのか?

 

以前、
サッカーを題材に、
起動順序や配置順序について考えた。

ボールを受けたとき、
すぐに前を向く選手もいれば、
味方を探す選手もいる。

相手の位置を確認する選手もいれば、
まずボールを守ろうとする選手もいる。

同じ状況に見えても、
それぞれが見ているものは違う。

そして、
見ているものが違えば、
当然、判断も変わる。

ここで一つ疑問が生まれる。

 

選手は、
すべての選択肢を比較した上で判断しているのだろうか?

もちろん、
意識的に考える場面もある。

しかし、
実際のプレーでは、
考えるより先に身体が動くことも多い。

過去の経験や練習によって、
ある状況ではある動きが自然に選ばれる。

つまり、
判断とは、必ずしも頭の中で答えを選ぶ作業だけではない。

 

何が見え、
何が見えなくなっているのか?

その時点で、
判断の方向は大きく変わっているのではないだろうか?

 

 

滝を描くなら、水を描くな

 

先日、
水彩画の添削動画を見ていて、
面白い話に出会った。

 

題材は滝の絵。

 

投稿者は、
滝の岩をうまく描けず、水を中心に描いていた。

それに対して、
画家の柴崎さんは、
滝を描くなら水ではなく岩を描く、
という趣旨の助言をしていた。

そして、
岩を描くことで、
見事な滝を表現してみせた。

これが非常に興味深かった。

滝を描こうと思えば、
普通は水に注目する。

勢いよく落ちる水。
白い水しぶき。
流れる水の美しさ。

しかし、
水は水だけで滝になっているわけではない。

岩があり、
地形があり、
落差がある。

そこに水が流れることで、滝という現象が生まれる。

 

なぜ岩からなのか??
柴崎さんがいう。
「水は方円の器に随(したが)う」と。

 

水は四角い器に入れば四角くなり、
丸い器に入れば丸くなる。
水の形は、
水だけで決まるわけではない。

ならば、
滝を描くために岩を描くという判断は、
実に理にかなっている。

 

そして、
ここで面白いことが起こる。

岩を描いていくと、
塗らずに残した白い紙が、
水として見えるようになる。

もともとの白い紙は、
水ではない。

しかし、
岩との関係によって、
水として現れる。

画家が描いたのは岩。

しかし、
見る人が見たのは滝だった。

 

これほど、
判断順序を考える上で面白い例はないと思った。

 

 

目的を直接描く必要はない

 

私たちは何かを実現しようとするとき、
その目的そのものに意識を向けやすい。

仕事で成果を出したい。
部下に成長してほしい。
人間関係を良くしたい。
自分自身を変えたい。

すると、
成果を出す方法や、
人を変える方法を考える。

もちろん、
それが必要な場合もある。

しかし、
滝の絵のように、
目的そのものを直接描こうとすることで、
かえって難しくなることもある。

 

例えば、
職場で同じミスが繰り返されているとする。

そのとき、
ミスをした人だけに注目すれば、
注意する、
叱る、
指導する、
といった判断になりやすい。

しかし、
少し視点を変えてみる。

仕事の手順はどうなっているのか?
情報は正しく伝わっているのか?
作業する場所や時間に問題はないのか?
そもそもミスが起こりやすい環境になっていないだろうか?

すると、
人を直接変えようとしなくても、
仕事の配置や手順を変えることで、
ミスが減る可能性が見えてくる。

これは、
人の責任をなくすという話ではない。

 

水は方円の器に随(したが)う。
人の行動も、
周囲の条件との関係によって生まれているという話だ。

 

滝の水を変えようとする前に、
岩の配置を見てみる。

それだけで、
判断の方向が変わることがある。

 

 

正しい判断より、判断が生まれる条件

 

ここまで考えると、
判断順序とは何だろうか?

 

私は、
単に物事を決める順番ではないと思う。

何を先に見て、
何との関係を捉え、
そこから何を選ぶのか?

その一連の流れが、
判断順序なのではないだろうか。

そして、
判断には過去の記憶も関わっている。

 

私たちは水を描こうとすると、
水色の絵の具を選びたくなる。

しかし、
実際の水は透明であり、
周囲の光や景色によって見え方が変わる。

それでも、
水は青いという記憶があれば、
青く描くことが自然な判断になる。

この記憶は便利だ。

青く描けば、
多くの人が水だと理解できる。

しかし、
その便利な記憶によって、
目の前の透明な水を見落とすこともある。

 

つまり、
記憶は判断を助ける一方で、
判断の可能性を狭めることもある。

だからこそ、
学ぶことが重要になる。

学ぶことで知識が増える。
経験が増える。
見えるものが増える。

そして、
何を使い、
何を使わないかという選択肢も増えていく。

 

やがて、
以前は意識しなければできなかったことが、
自然にできるようになる。

 

学びとは、
考えることを増やすだけでなく、
考えなくても済むことを増やす営みでもある。

 

 

描けるからこそ、描かない

 

ここで、
もう一つ大切なことがある。

 

岩を描くことで水が現れると知ったからといって、
常に岩から描くことが正しいわけではない。

水から描いた方がよい場合もあるだろう。

大切なのは、
岩から描くという新しい正解を覚えることではない。

水から描くこともできる。
岩から描くこともできる。
光や影から描くこともできる。

そして、
その場に応じて何を描くかを選べること。

さらに熟達すれば、
すべてを描く必要がないことにも気づく。

描けないから描かないのではない。

描けるけれど、描かない。

この違いは大きい。

 

何かを付け加えることだけが、
成長ではない。

何を残し、
何を描かないか。

そこにも判断がある。

そして、
その判断すら、
経験を重ねることで自然に行われるようになるのかもしれない。

 

 

判断しなくても、判断が生まれる

 

孔子の言葉に、
「七十にして心の欲する所に従えども矩(のり)を踰(こ)えず」
というものがある。

七十歳になって、
自分の心の望むままに行動しても、
道理や節度から外れなくなったという意味だ。

これを、
今回の滝の話に重ねてみる。

 

若い頃は、
水を描こうとする。

自分の意思で、
自分の望む形を描こうとする。

しかし、
思うようにはいかない。

そこで、
岩を知る。
地形を知る。
落差を知る。
風や光を知る。

自分以外のものを知り、
それらとの関係を学んでいく。

そして、
長い時間をかけて経験を重ねる。

すると、
あるとき水を描こうとも、
岩を描こうとも意識していないのに、
滝が現れる。

もちろん、
年齢を重ねれば誰もがそうなるという話ではない。

また、
孔子が水彩画について語ったわけでもない。

ただ、
判断というものを考える上で、
とても興味深い比喩だと思う。

四十年、水を描いた。

三十年、岩を描いた。

七十にして、滝となった。

水を描こうとしていた人が、
岩を描くことを覚え、
やがて水と岩を分けて考えなくなる。

そのとき判断はなくなったのだろうか?

私は、そうではないと思う。

判断が消えたのではなく、
判断するために必要だった意識的な手順が、
自然な働きへと変わったのではないだろうか?

 

 

判断順序の、その先へ

 

ここまで、
起動順序、配置順序、関係順序、そして判断順序について考えてきた。

何から動き始めるのか?

どこに置かれているのか?

何と関わっているのか?

そして、何を見て判断するのか?

 

これらは、
別々に存在しているわけではない。

互いに影響し合いながら、
一つの行動として現れる。

だから、
判断だけを取り出して、
正しいか間違っているかを考えても、
見落としてしまうものがある。

なぜ、その判断が生まれたのか?

何が見えていて、何が見えていなかったのか?

何との関係が、その判断を成立させたのか?

そこまで観察してみると、
人の行動は少し違って見えてくる。

 

そして、最後にもう一つ。

滝を描くために岩を描いた。

しかし、
世界には横向きに流れる滝のようなものもあれば、
水中に滝があるように見える景色もある。

つまり、
私たちが知っている「滝」という形すら、
唯一のものではない。

岩を描くことが正解だと決めつけた瞬間、
また別の可能性が見えなくなるかもしれない。

だから学び続ける。

判断を固定するためではなく、
判断が生まれる条件を、
何度でも見直せるように。

判断順序とは、
正解にたどり着く順序ではない。

何が正解として立ち上がっているのかを、
観察する順序なのかもしれない。

そしていつか
何かを描こうとしなくても、何かが現れる。

そのとき私たちは、
判断することをやめたのではなく、
判断とともに生きているのかもしれない。